歩く男  

オーギュスト・ロダン
(1840−1917)
Auguste Rodin

 現代彫刻の父と称されるフランスの彫刻家。パリ生れ、ムードン(パリ近郊)で歿。エコール・デ・ボーザール(国立美術学校〉の入学試験に三度失敗し、生活のため建築装飾の仕事を続けるが、彫刻家カリエ=ベルーズのアトリエで彫刻に専心。のちイタリアへ旅行してミケランジェロに触発され、「青銅時代」を制作する。その余りにも正確な迫真の肉付けが人々を驚かせ、大きな反響を呼んだ。続いて発表した数々の力強い、躍動的な表現に溢れた彫刻は、その都度、激しい論争の的となったが、そうした大胆な創作は、1900年頃まで続く。この間、政府の注文で制作に着手した「地獄の門」(1880年。この中に「考える人」が含まれている)や、「カレーの市民」(1884−86年)、「バルザック」(1891−97年)など、いずれも驚くべき表現豊かな、近代彫刻の原点となる作品を生み出した。鋭い観察によって彫刻に躍動する情感を与え、大理石やブロンズに生命を吹き込んだと評され、1900年のパリ万博を機に世界的な名声を得るに至る。
晩年は小品の制作が大半で、モニュメンタルな構築を欠く作品が多かったため、いずれも断片的な彫刻という印象を人々に与えたが、鋭い観察眼から生み出されたデッサンや水彩画、版画作品は、素早い筆さばきをみせており、対象の動勢とその内面的な情感をみごとに捉えている。
ロダンはわが国にもいち早く紹介され、激しい動きと秘められた深い思索を想起させるその躍動的な彫刻に、白樺派の青年たちが熱い称賛の念を抱く。1910(明治43)年9月、有島生馬がロダンに手紙を書き、同年11月には『白樺』の「ロダン特集号」と浮世絵30枚を贈った。これに対し、ロダンは翌1911(明治44)年12月、返礼にブロンズ像3点を贈ってきたのである(「マダム・ロダン像」「巴里ゴロツキの首」「ある小さき影」)。これを機に武者小路実篤らの美術館建設の構想が芽をふき、大正6(1917)年10月、『白樺』誌上で「美術館をつくる計画」を発表、白樺美術館設立運動を提唱するに至る。同年12月、ロダンが逝去すると、同人は「ロダン追悼号」を刊行し、その後も巻を追うごとに主だった代表作を写真図版によって紹介した。
ロダンの全作品は、その死後フランス政府に遺贈され、パリとムードンの住居、アトリエがいずれも現在、美術館として公開されている。

歩く男
(美術館内パビリオンより)